唯物論者ぽん太郎さんからの質問に対して数回にわたってお答えしています。
※ちなみに私は、アンチ唯物論派として、唯物論はおかしいし、
生命の尊さを軽んじさせる怖い思想で、死生観に問題ありだと提唱しています。

唯物論者のぽん太郎さんから、たくさんの回答を頂きました。
夜遅くまで有難うございます。

予告どおり、今回から《第2ステージ》に突入したいと思います!

※厳密にステージが変わったわけではないのですが、
リフレッシュも兼ねて(^^;

さて、たくさんお話したいことはあるのですが、うんと我慢して
今日は話をしぼりたいと思います。

まず、

>平易な言葉でいえば、ぽん太郎さんは、
>「不完全だが、真実と言おう」
>といっているのですが、

という私の文章についてのぽん太郎さんの返答は以下のとおりでした。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

我々の世界に対する認識は常に不完全です。
五感による認識も限界がありますし、自然科学的測定も限界があります。
(世界認識について)完全な認識(真実)は不可能です。
我々はより良き認識(真実)を求めるしかありません。
自然科学は我々に最良の認識(真実)を与えてくれます。
自然科学こそ真実(=この世界の真の姿)を知る最善の道具(羅針盤)であると思っています。

数学の理論でもない限り完全ということはあり得ません。
我々の五感による認識も勿論不完全ですし、実証の学である自然科学も常に不完全です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

「自然科学も常に不完全です」

まったくもってごもっとも。
本当にその通りです。
同感です。

また、ぽん太郎さんから

「問題の性質上厳密な手順で導き出すこと(証明)は不可能です」
というコメントを今回頂きました。

これもまったくもってごもっとも。
本当にその通りです。
同感です。

というか、やっと、ここまで辿り着きました。

この一文を確認するために、いろんなサインを送ったり、
いろいろな言葉を使ってきました。
なので、この一文を、ぽん太郎さんがハッキリ言われたということは
大きな前進だと思います。

その上でお話しますが、

《完全な認識(真実)は不可能です》

と述べたスグ次の行に

《我々はより良き認識(真実)を求めるしかありません》
と言われ、さらにそのスグ次の行にも

《自然科学は我々に最良の認識(真実)を与えてくれます》
と言われていますが、まず

 ここでいう「真実」とは
(僕の背は170センチという事実というような意味とは違い)

「人間の努力によって認識できようができまいが、変わらぬ真理。
いわゆる時代や場所に左右されないもの。
平たい言葉でいえば、いつでもどこでもなりたつもの」

ではありませんか?

これに異論がございますでしょうか。

※返答はまたねばなりませんが、おそらくここまでは大きな異論は
ないかと思いますので次にすすみたいと思います。

そして、問題は次です。

より良き認識(真実)

最良の認識(真実)

と、ぽん太郎さんは書かれていますが、

どうして、

《より良き認識》が「真実」といえるのでしょうか?

どうして

(おそらくは現時点のという意味で)《最良の認識》が「真実」といえるのでしょうか?
※ちなみに《完全認識》が「真実」という言葉のスグ後に、これらの言葉を述べられると、ますます意味が分からなくなってしまいます。

ぽん太郎さんとの議論でかみ合わない大事なところがここにあると思います。


たとえば、1970年に最良の認識として理解された「A」が
あったとします。

ところが、2010年に最良の認識として理解された「B」が
あり、「B」が「A」の間違いを明らかにした場合どうなるの
でしょうか?

そんな「A」を真理とか真実といっていいのでしょうか?

真実とは、先に述べたように、いつでもどこでも変わらない真理
ではありませんか?
あとで間違いと分かるようなものは「真実」とはいえません。

確かに科学は真理探究(解明)に大変有効に働き、非常に参考になります。
だからこそ、私も曲がりなりに勉強しています。

しかし、どれだけ科学の精度をあげても、真理自体には到達できません。
それは、ぽん太郎さんが「不完全」「証明できない」と言われた通りです。

そんな「不完全」で「証明できない」理論なのに、

どうして、ぽん太郎さんは

「唯物論は真実です」
「唯物論は真理です」

と何度も断定されたのでしょうか?

私は、「唯物論は真理です」という一文を見た時点で

ぽん太郎さんは次のどちらかであろうと思いました。

1:ぽん太郎さんは、科学で真理が分かると思っている

2:ぽん太郎さんは、科学で真理が分かるとは思って
いないが、一番理にかなった論だと説明できるから
「真理」と言ってかまわないだろうと思っている。

今回のことで、おそらく「2」の部類なのだと思いました。
(微妙な点では違うかも知れませんが、ほぼそうだと思い
ますが、いかがでしょうか?)

ちなみに、私自身の見解は(繰り返し述べてきましたが)、

ぽん太郎さんが言われる「観念論」も「実在論」も不完全で、
ともに真実と断定出来る論ではない、という立場です。

そして、今、私は「唯物論」の反証をしているわけではなく、

ぽん太郎さんの「論証」に問題がある、ということを明らかにしようと
しています。(少なくとも現段階は)
それには、ぽん太郎さんとの共通認識が必要です。
大事な「物質」という言葉一つとっても共通認識は簡単では
ありませんからね。そのために時間をとってやりとりして
おります。

論証の問題については長くなりますので、次回にお話するとして、

今は、

「より良い認識」を「真実」といっていいのか、

「より良い認識」は「真実」というべきでないのか、

そして「不完全」で「証明できない」理論なのに、

「唯物論は真実です」
「唯物論は真理です」

と断定していいのか。

という問題にしぼりたいと思います。

これは土俵ともいうべき大きな問題ですので、
ここにズレがありますと、いつまでたっても結論がでないでしょう。


なお、ぽん太郎さんはずっと「証明」という語を使用せず「論証」と
いう語を使用していたのだ、とも述べられましたので、はじめから
「証明」は出来ないとご存知だったと思います。

これはさすがといいましょうか、素晴らしいことだと思いました。
しかし、同時に意外でもありました。

通常、「証明」とは、「論証が妥当であること」を示すものだからです。

まさか、「唯物論は真理」と断言され、それに付随して
次々と断言し、自信一杯語られるぽん太郎さんが
自身の論証を「妥当とはいえないかもしれない」という
立場であったとは思わなかったからです。

(確かに改めて読みますと前提云々が問題点という
記述もあったので、実はそうだったのですね)

ぽん太郎さんが、「妥当な論証」と思って論じているとばかり
思い、ぽん太郎さんが証明したと思っていた私が間違って
おり、失礼致しました。

(参考:

ある論証が妥当であっても、その結論が真であるとは限らない。
前提が偽であっても、論証形式自体は妥当なことがあるためである。
妥当な論証で前提が真であるときのみ、結論も真となる。

念のためにお伝えしておきますと、
私がここでやりとりしているのは、勝ち負けのためではありません。
理屈をこねるためでもありません。


「唯物論が真実でない(少なくともその可能性がある)ならば、
その唯物論を真実と断定し、その結果、危険な思想が
広まることを押しとどめねばならない、と思っています。

どう危険かは今までも書いてきましたが、もう少し話が
進展してからより鮮明にしたいと思います。

なので、今の段階では「唯物論は真理とは断定できませんよ」、
ということを明らかにしようとしています)

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